ちゃんとすると、しないの間で、私は寝癖をつけて、怒られ、髪を切る

「他人と会うちゃんとした仕事だったら、そうはいかないんだぞ。一回、そういうところで働いてみたらいいんだ。」

 朝の職場で、寝癖をちゃんとなおさないことを天然パーマ気味の毛質のせいにして言い訳していたら、年上の同僚から怒られた。

 私は障害者福祉施設の職員である。利用者さんは知的障害のある人がほとんどで、髭剃りや服装など、身だしなみに支援が必要な人もいる。職員である私は、利用者さんが自分で身だしなみを整えられるように、チェックシートを使って一緒に確認したりする。そんな立場上、範を示すべく身だしなみを整えるべし、という指摘は至極ごもっともである。寝癖がついた髪に袖のほつれたジャージを着た人間が、身だしなみについて何か言ったとて、説得力がない。

 だが、笑って頭を下げてごまかしながらも、心のうちでは「おっしゃることはわかります。けどね……」と、私の芯にある何かが反論をはじめる。

 まず、「他人と会うちゃんとした仕事」とおっしゃいますが、私らの仕事だって、利用者さんという、他人と会う仕事ですよ。ただ、利用者さんとはほぼ毎日会っていて、下手したら家族よりも一緒にいる時間が長いですし、なかには10年以上も関わっている人もいるので、その関係が「他人」と書いて「ひと」と読むそれであるかというと、べき論は別にして、実際的には微妙な感じはします。だからついつい油断した格好になり、そこに私の甘えが出てきて……あれれ?なんだか部が悪いぞ。

 いや、「ちゃんとした仕事」にひっかかったのかもしれない。おそらくだが、「ちゃんとした仕事」という言葉であの人が言いたかったのは、スーツを着るか、そうでなくても襟付きのシャツなんぞを着てオフィスカジュアル(?)な服装でパソコンに向かい、取引先とやりとりしたりする、なんかそんな仕事だと思う(あの人は以前そういう仕事をしていたと聞いたことがある)。そういう仕事だけを「ちゃんとした仕事」だと認める世間の目には憤懣やる方ない。だが、たしかに、私も職務上、行政の人や相談支援専門員と関わるが、彼らがひどい寝癖姿だったら、面談の際に少々不安になるかもしれない。少なくとも、きちんとした身だしなみの方が、その人の仕事への信頼感は高まる。となると、福祉施設職員が「ちゃんとした仕事」か否かにかかわらず、私も相手から身だしなみで信頼感を測られているだろうし、自分だけを棚に上げているのはいかがなものか?あれれ?

 完全論破された。はい。私は寝癖を直した方がよいです。というか、この記事を書いている途中で、散髪してきました。だいたいが冒頭で述べたように、私はやや癖っ毛なので、伸びると管理が難しい。だが、短髪にすると癖はなりをひそめる。寝癖は目立たず、さっと櫛をかければ整う。これで明日から私も信頼される「ちゃんとした」人間になれる。めでたしめでたし……。

 

 ときどきスーツを着て身を整えると、自分がなんだか立派な人間になった気がする。自然と胸を張り、自信が湧いてくる。お気に入りの服に袖を通したときの高揚感とは、また別の感覚。自分が「ちゃんとした」大人になったような錯覚。「ちゃんとした」大人になるための階段を前にして、スーツになじめずにいた、あの頃ゆえの卑屈な虚栄心。

 学部時代の就活は、ビッグサイトかどこかでやっていた集団面接会に一度行ったきりでおわった。慣れないスーツをぎこちなく着てせかせかする同世代の顔々は、切迫感を感じるほど真剣か、就活というゲームを楽しんでいるように見えた。どちらのノリも肌に合わず、あまりに居心地がわるくて、すべて冗談のように感じられた。「こんなにがんばっている人たちがたくさんいるのだから、自分がここでがんばらなくても社会はまわるな」と思って、就活は辞めた。

 大学院に進学して、「がんばらない人ばかりでも世の中がまわっていく仕組みがあるのでは?」みたいな研究を、あまりがんばれずにやって、何もわからないまま卒業した。とある企業から一応内定をもらったものの、内定者研修会でほとんど寝ずに謎の号令や標語を振り付けつきでおぼえさせられ、理由もわからないまま泣きながら頭を下げ、スクワットを400回して歩けなくなった。卒業式後に断りの電話を入れ、晴れて無職となり、しかし無職での実家生活も親の優しさに耐えられず、引っ越してフリーターになった。働けど働けど、働くことが自分には合っていないと感じられ、職場のトイレで「死にたい」と呻いていたら同僚に聞かれて陰口を言われるようになり、辞めた。

 「働くのがつらい」「なぜこんなにも、私は働くのに向いていないのか?」「社会不適合者なのでは?」「そもそもこの社会の仕事が、私に向けられていないのではないか?」「しかし、それは私のせいばかりではなく、社会が私にあっていないということでは?」「とすれば、社会のせいで働くことから疎外されている人々が、私以外にもいるはずだ」「そういった人々とともに働くことで、この社会を、いくらか生きやすいところにできるのでは……?」

 振り返って書き記すと、論理的にはツッコミどころがないではない。だが、ギリギリのところで、そんな理屈を捻り出したことで、私は生き続け、障害者福祉施設の職員という仕事に流れついた。

 

 だから、「ちゃんとする」を、私はしたくない。いや、もちろん、寝癖はなおした方がよい。だが、「した方がよい」を「しなければならない」へと置き換え、人に当然のように義務を課すことはしたくない。もちろん、自分でマナーを守ることと、他人に義務を課すこととは別だ。だが、スーツを着て身を整えると立派な人間になった気になり、それが当然ですよという顔をしてしまう愚かな私には、実践的には区別が難しい。

 私は明日も、今日と同じように、仕事として、利用者さんの身だしなみチェックを手伝う。だが、身だしなみがそれほど「ちゃんと」していなくても困らない人もいるし、どのようにどの程度、身を整えることが必要かは、時と場合による。そして、生きることのハードルを下げるためには、やや鷹揚な方がよいし、私はそのために鷹揚でありたい。

 そんないい加減さを忘れないために、私は寝癖をつけたまま仕事に行く。愚かな私が、もっと愚かにならないために。ほどほどの愚かさを身に纏い、言い訳して、怒られて、そのたびに髪を切るのだ。

動物の権利の政治的転回?

 Tony Milligan. (2015). The Political Turn in Animal Rights. を読んだ。動物の権利論の一部で「政治的転回」と呼び得る現象が生じているとして、その由来、目標、新規性や含意、限界が検討されている。日本ではあまり見ないタイプの議論だと思う。私自身、よくわかっていないところもあるが、せっかくなので紹介する。コメントでご教示いただければ嬉しい。

 

 

 

政治的転回とは何か?

 この論文では、表題のとおり、動物の権利(論)における「政治的転回」がテーマである。政治的転回とは何かというと、Milliganによれば、以下の5つのコミットメントで特徴づけられる。

 

  1. リベラルな諸価値に広く訴えること
  2. シンガー流の帰結主義ではなく、権利論の文脈で、動物の利害 interest を重要視すること
  3. 消極的権利や動物福祉への配慮だけではなく、積極的権利を重要視すること
  4. 限界事例の議論を重要視せず、周辺的な役割しか求めないこと
  5. 政治的な関与や妥協に対しての広く現実的 pragmatic な態度

 

これだけ眺めても、わかったようなわからないような感じだが、その詳細は本文で徐々に描かれる。さしあたり、Milliganは、上記のような諸特徴がみられるテキストとして、以下を挙げている。

  • Donaldson, S., & Kymlicka, W. (2011). Zoopolis: A political theory of animal rights.
  • Garner, R. (2013). A theory of justice for animals.
  • Cochrane, A. (2012). Animal rights without liberation.
  • O’Sullivan, S. (2011). Animals, equality and democracy.

 

邦訳があるのはDonaldson, S., & Kymlicka, W. (2011).『人と動物の政治共同体』青木人志・成廣孝監訳)だけである。

 

政治的転回はどこから来たのか?

 では、政治的転回と、その諸特徴はどこから来たのか?それは動物の権利論における2つの分断線からだと、Milliganは述べる。すなわち、①利害(Singer) VS 権利(Regan)と、②廃絶主義 VS 新福祉主義である。

 ①利害(Singer)VS権利(Regan)については、不毛な対立とされる。利害にもとづく権利という立場こそが、正当化の力が強く、(自律的な理性的主体などと比べて認知的な要求も少ないがゆえに)包括的で、最良だからである。

 ②廃絶主義 VS 新福祉主義は、Francioneの示した構図だ。廃絶主義とは人による動物搾取の慣行をすべて廃絶することを目指す立場であり、新福祉主義は動物福祉への配慮などの漸進的な改善も戦略的に認める立場である。Francioneは、後者は動物搾取の慣行を延命させるまやかしだと批判し、廃絶主義の立場をとっている。

 だが、廃絶主義にも難点があると、政治的転回のテキストは指摘している。廃絶主義は畜産や動物実験といった動物搾取の慣行の廃止を目標とする。そして、そのために家畜の絶滅を目指す。ここに問題がある。人と動物の擁護可能な関係もあるのではないか。それを描けない廃絶主義は、道徳的に擁護できない上に、政治的に非現実的なものである、と。

 このような由来から、人と動物の擁護可能な関係を現実的に模索することが、政治的転回のモチベーションになっていると、Milliganは説明する。たとえばDonaldson, S., & Kymlicka(2011)では、動物の利益をただ考慮するのではなく、人と動物との共通善の一部として考慮することを主張している。

 

リベラルな価値観への訴え

 ところで、動物の権利の政治的転回というが、動物の権利の議論はもともと政治的である。それは、Singerの動物解放が、奴隷解放や女性解放と関連づけられていたことからもわかる。

 では、政治的転回の新規性はどこにあるか?政治的転回の諸テキストは、リベラル・デモクラシーの価値である自由・平等・友愛に広く訴え、コミットメントする。Milliganは、それ以前の動物の権利論は人と動物の平等という言説の一本やりできたと指摘する。そして、それとの比較対照を通じて、政治的転回の意義を以下のように説明している。

 SingerとReganの誤りは、平等を焦点としたゲームに熱中したことである。そして、その継承者として平等に強くコミットメントしたFrancioneの廃絶主義は、他の諸価値を平等に還元するか、見過してしまった。たとえば、動物の自由については、非平等主義的(=種差別的)な慣行を廃止し、人の搾取から動物を自由にする、という消極的自由にのみ焦点化した。そこでは、積極的義務や社会的コミットメントは扱われていない。しかし、平等の価値は、もっと多様でリベラルな価値に埋め込まれているのではないか。

 たとえばDonaldson, S., & Kymlicka(2011)において家畜は、人とともに政治的共同体の構成員としてみなされる。すなわち、市民的義務を負い、積極的権利を持つ市民として扱われる。

 Milliganは、彼女らの議論が正しいかは別として、その議論の強みを2点、自由と友愛に関連してあげる。自由に関しては、解放のために絶滅すべきである、という絶滅主義を否定している点で、廃絶主義よりも強固でもっともらしい。また、友愛に関しては、何らかの感覚をともに享受しているという説明だけではなく、連帯、共同体、つながり、仲間意識に関する説明をすることで、より強固な議論を提供できている、と。

 このあたりは意見が割れそうだと読んでいて思ったが、人と動物との擁護可能な関係を模索するという政治的転回のモチベーションを踏まえると、一貫してはいる。

 

平等と共同体の連携

 上記の議論を踏まえて、動物の権利について考える際、平等だけではなく共同体の働きに着目すべきである根拠と意義を、Milliganは検討する。それによって、平等についてもより繊細な議論が可能となるという。

 SingerやRegan、Francioneらは、動物を個体として捉え、その個体が人と何かしら同じ性質を持つがゆえに、道徳的配慮に値する価値を有すると考える。だが、このような価値論が道徳的判断において果たす役割は限られている。実際、私たちは、燃えさかるビルから他人よりも家族を優先して助ける。私の共同体のメンバーが他国を侮辱していたら、私個人が何もしていなくても、遺憾の意を表明するのに十分な理由がある。このように、私たちの道徳的判断は、複雑な関係に左右されている。

 このような人間同士の道徳において重要とされる関係的熟慮を、動物に対してだけしないのは二重基準である。動物に関しては個体の価値にのみ配慮すべきだ、という考えは、動物に対しては二流の道徳的思考が適切だという差別である。

 O’Sullivan, S. (2011)とDonaldson, S., & Kymlicka, W. (2011)はまさにこのような状態から脱却しようとしている。平等という概念は、個体主義的にだけ使用されるべきではない。平等という概念は、共同体主義的な(あるいは友愛的な)つながりにおいてなされる正義、という文脈におくことで、より生産的な議論が可能になる。

 このようにMilliganは、人と動物との関係を重視する政治的転回を、平等概念の深化にも役立つものとして説明する。

 

政治的転回は、動物解放を支持できるか?

 ここまでMilliganは、総じて、政治的転回の意義を認め、擁護してきた。だが、ここから先は批判的な目線をむける。平等をある種の制限におく政治的転回は、平等と、それに伴う動物解放のプロジェクトを放棄することにつながるのではないか、という懸念ゆえである。これは重大は疑義である。

 実際、Cochrane, A. (2012)は、動物の権利と平等は維持できるが、動物解放は放棄すべきだとしている。これはある種の権利概念、利害にもとづく権利の概念からきている。Cochraneによれば、「権利の所有とは、その所有者が他者に義務を課す、ある重要で基本的な利害を持っていることを意味する」。動物は多様な利害を持っており、それゆえに権利を有する。だが、動物の利害は環境制約的であり、non-prudentialな利害ではない*1。たとえば、屠畜場の豚はそこから逃げることに関する明白な利害を持つが、より広範な自由への利害は持たない。そのような自由への利害のためには、自律 autonomy と道徳的行為者性 moral agency の能力が必要である。自律とは、「道徳的原則にもとづいて理性的に行為する能力」であり、道徳的行為者性の能力とは「善い生活の概念を構築し、見直し、追い求める能力」である。動物は自律と道徳的行為者性を有さず、それゆえに自由への広範な利害を持ちえない。だから、動物にある種の権利はあるが、その解放は道徳的に要請されない*2

 このようなCochranの立場には重要な強みがあり、特に2つが際立っているとMilliganは述べる。1つは、動物は解放に対する本来的利害を持たないがゆえに、猫や犬などの依存的な動物たちの権利をまもるために、その絶滅は不要であること。また1つは、Francioneの見解に反して、動物の権利をまもることは動物の財産としての地位と必ずしも矛盾しないこと、である。この立場からは、動物の地位の改善は動物の権利向上に資するものと理解でき、政治的な現実主義 political pragmatismとも親和的である。

 しかし、Cochraneの議論にはやはり問題があると、Milliganは考える。たとえばCochraneは、自律とは「道徳的原則にもとづいて理性的に行為する能力」だとしたが、徳倫理学者や道徳的個別主義者は、そうは考えない。彼らによれば、自律とは、原則や公理にもとづいて行為することとはほとんど関係がない。それはむしろ、状況に対する価値負荷的な解釈と、私たちの欲望とを、獲得し、作り直し、行為することに関係している。道徳的行為者性についても、「善い生活の概念を構築し、見直し、追い求める能力」として理解するのは不適切である。道徳的行為者性は、大抵の場合、理論とはあまり関係がなく、状況を特定の価値負荷的な方法で見て、その方法によって行為するということである。このように考えれば、自律性も道徳的行為者性も動物が持ちうるものであることがわかる。

 くわえて、そもそも道徳的行為者性は、利害を持つために不要である、とMilliganはCochraneへの批判を重ねる。自律性があればよいからである。人であろうと動物であろうと、欲望が充足されることは、その欲望が有害である場合などを除けば、基本的にはよいことである。だから「「真に自分自身の」欲望を持ち、それを獲得し、行為すること」という意味での自律性があれば、欲望の充足に利害を持つことができる。

 ここで自律性に関連して、「真に自分自身の」という言い方で重要な点は、欲望の獲得方法の適切さである。たとえば、欲望が外部からの直接的な神経刺激などによる場合、それはその者自身の欲望とは言い難い。だが、ある種の訓練によるものは、適切と言ってよいだろう。人も、教育と社会化を通じて自律性と欲望を獲得する。動物だけがそうであってはいけない理由はない。だから、動物は自律性を持ち、利害を持つことができる。

 Milliganはこのように、動物は自律性を持ち、それにもとづいた利害を持つとCochranを批判する。だが、より重大な問題が残されているという。それは、その利害は自由に対する権利を根拠づけるために十分なものか、という問題である。上述のように、Cochranは、動物はその利害の限定性ゆえに、権利を持ちうるが、その権利の中に動物解放を要請するものは含まれない、と考えている。

 動物の利害が自由への権利を根拠づけるかは、自由を、そして動物解放をどのようなものとして理解するかにかかっている。Milliganは、どのような自由が動物にとって必要かを、これまでの動物解放の議論を踏まえて検討する。まず、最低限、屠畜の廃止、侵襲的実験の廃止、動物を財産として位置づけることの廃止を意味する必要がある。ただ、動物の保護者と伴侶動物の最良の例を含むようなすべての依存関係については、廃止すべきか定かではない。また、動物の財産的地位の廃止がFrancioneら廃絶主義者が主張するように、消極的な手放し hand-off である必然性はない。Milliganは、そのように考える。

 だが、これは動物の財産的地位の廃止は不要である、というCochranの立場に賛同するものではない。たしかに、Cochranが言うように、ある者がだれかの財産であることは、その者が多様な権利を持つことと理論的には矛盾しない。だが、財産であることは、実際にはその者の地位を格下げすることを意味する。これは財産に関する文化的な連関を踏まえて、人を例に考えれば、自明である。したがって、動物についても同様であり、好印象にみられることも動物の利害に含まれるはずである。動物の利害が prudential か non-prudential かは、ここでは重要ではない。動物虐待の慣習と動物の財産的地位は強く結びついているから、まずは動物の財産的地位の廃止が実現されるべきである。そして、そのために動物解放へのコミットメントは最も信頼できる選択肢であり続ける。政治的転回だけでは、他のいかなる立場も約束できない。

 このように、Milliganは、動物の財産的地位の廃止などのまず実現されるべき動物の権利のためには、さしあたり政治的転回よりも、動物解放こそが役立つと結論づける。

 

結論

 以上のように、Milliganは、動物の権利実現にむけて、政治的転回は動物解放に代わり得るものではない、と結論づけている。だが、その意義として、人と動物の擁護可能な関係を現実的に模索している点、リベラルな諸価値に広く訴えることで積極的権利の検討や平等概念の深化など、動物の権利論をより豊かにし得る点がある。また、そこに通底するものとして、廃絶主義への批判がある。

 要するに、政治的転回の諸テキストとその思想は、動物解放に代わるものではないが、その対話相手としては十分に意義のある存在である、というのがMilliganの結論である。

 

コメント

 さて、以上がMilliganの議論の紹介である。私も、廃絶主義は受け入れ難く、人と動物の擁護可能な関係に関心がある。それゆえ、政治的転回の可能性と限界についての探求から、学ぶところが多かった。

 議論の骨子は、おそらく3点。①動物の権利の政治的転回は、動物解放に代わるものではない。だが、②政治的転回は動物の権利論の新たな可能性を提示している。その一方で、③政治的転回は、動物解放の妨げになるリスクも孕んでいる。以上の3点について、以下でコメントする。

 

 まず、①動物の権利の政治的転回は、動物解放に代わるものではない。それは大筋ではそのとおりだと思う。ただ、そもそも動物解放と動物の権利の政治的転回は、必ずしも対立するものではない。対話相手としてのみならず、役割分担による協力関係も結び得る。

 一つには、両者の目標は、対立するというよりは、段階が異なると考えられる。動物解放はまず目指すべき目標で、政治的転回で議論されるような人と動物との積極的関係はその次の目標である、という二段階論である。その場合、両者は対立せず、たんに焦点を当てる段階が異なるだけである。

 また、一つには、さしあたりの目標が動物解放だとしても、その方法として、政治的転回は有用かもしれない。動物のニーズを政策に反映するような政治的仕組みの構想は、動物解放と矛盾しないし、役立つ可能性がある。また、先の段階論を認めるならば、理想とも思えるような先々の目標を提示するからこそ動物解放への支持が増える、ということも考えられる。たとえば、犬や猫との関係に愛着を感じている人々は、絶滅よりも共生社会を目標とする方が共感できるだろう。

 

 このように、動物解放と政治的転回の協力関係が有意義な理由は、②政治的転回は動物の権利論の新たな可能性を提示しているからである。家畜の絶滅を避け、人と動物が共生する社会を目指す点に、政治的転回の重要な貢献がある。

 たしかに現在、家畜は、そのそれぞれの権利を尊重するためには、個体数が圧倒的に多すぎる。人に搾取され、その都合で殺されることを前提としているからだ。畜産動物の牛、豚、鶏などは、その代表である。また、比較的マシな立場である愛玩動物の犬や猫ですらも、商品として生産・流通し、金銭で売買され、財産として持ち主の意向に左右され、ときに処分される。このような搾取関係から、家畜動物は解放されるべきである。

 ただ、彼ら彼女らは、たんに人が解き放てば自由で幸福な生を送れるわけではない。家畜は人に世話されることを前提として遺伝的に選抜されており、その権利をまもるためには、人が適切な環境を構築・維持する必要がある。そして、今この世界にいるすべての家畜を保護するには、この世界は狭すぎるし、資源がまったく足らない。だから、個体数を減らすべきだ、という点は同意できる。

 しかし、そもでもなお、家畜動物は人に支配される不幸な種だから絶滅すべきだ、とまでは言えないのではないか。個体数を減らし、動物がその権利を侵害されずに人と共存し、ともに幸せになり得る道があるのではないか。そして、そのほうがより望ましい世界ではないか。そのような問いに政治的転回の理論家たちは、リベラルな諸価値に訴えることで、前向きに答えようとする。そのような模索を、私は支持したい。

 

 だが、そのようなモチベーションゆえに、③政治的転回は、動物解放の妨げになるリスクも孕んでいる。一方では、現実主義という名の妥協的な搾取維持に、他方では、非現実的でユートピア的な理想主義に、堕してしまうリスクを孕んでいる。それが政治的転回の難点である。

 妥協的な搾取維持のリスクについては、Milliganも指摘するところである。人と動物の関係を保つために、人による動物搾取も維持してしまう。たとえばCochranの議論には、そのような傾向があるとのことだった。

 また、Milliganはあまり問題視していないが、ユートピア的な理想主義のリスクもある。人と動物の積極的で公正な関係を模索すると、動物の権利を消極的な自由権のみならず、積極的な社会権にまで拡張する議論が出てくる。Donaldson & Kymlicka の議論はその代表格であり、教育や医療を受ける権利を家畜動物に認める。また、ここで詳細は紹介できないが、社会福祉の観点から人と動物の関係を見直す動きもあり、その一部では、動物が社会福祉を受ける権利を有すると考えられている。

 もちろん、動物に社会権を認めることは、理論的にも現実的にも不可能なわけではないし、不適切でもない。ただ、先にも述べたように、この世界の資源は有限である。人の教育、医療、社会福祉であっても、慢性的な人手不足が叫ばれ続けている。人権侵害が構造的に生まれ続け、それを防ぐために社会保障費は増え続ける。ある種の社会福祉サービスを受ける人々への「社会のお荷物」という差別的目線もある。いわんや動物をや、というのは種差別だが、動物の参加によるパイの奪い合いの加速は否定できない。自然からの収奪も限界が指摘されて久しいなかで、人も動物も、だれも搾取されずにパイを大きくすることはできるだろうか。そんな問いに、政治的転回の論者が答える義務があるわけではないかもしれないが、絵に描いた餅と思われるリスクは常にある。共同体における友愛のみならず、マイノリティとしての連帯、諸階級・諸種間の融和をいかに実現するかは、政治的転回の取り組む課題になるだろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:prudential / non-prudential の意味が私にはわかりません。誰か教えてください。

*2:ただし、大型類人猿と鯨類は例外とされるらしい